街とアートと草間彌生

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先日、国立国際美術館での「草間彌生展」が終了した。
併催されていたカルペディエム 「草間彌生プライヴェートインスタレーションと新作版画展」と合わせて、今年の最重要イベントのひとつになると思うぐらいよかった。

しかし、それは聖地で目を閉じているとたまに見える模様のようなものと似たモチーフが、彼女のドローイングの中にあったという個人的な理由が大きい。

なのでそれは置いておいてここで考えたいのは、話題になったのかならなかったのか よくわかんんないまま阿倍野の複合ビルに出現した巨大壁画アート(10×30メートル!)のことだ。

これを観た時、とても驚いた。

それは、その大きさや思ったよりカワイイ絵だったというようなことではなくて、この混沌とした街にかき消されることなく、作品の強度を保っていることであった。いやむしろこの地のすさみ乱れた負のエネルギーを受け止め、浄化しているようにすら感じた。

正直、ここ一帯の地場の歪みはハンパない。大阪でも有数の再開発構想が地面から離れて上へ上へと向かっていくのも理解できる。ここのカオス状態はちょっとやそっとの整備ではなんともならないだろう。その理由は、歴史的背景と大阪の気の流れを無視した都市計画(特に庚申街道の断絶)にあった気がするが、いつかちゃんと検討してみたいテーマではある。

とまあ、そんなぐちゃぐちゃ状態の空間に設置されて平気でいられるアート作品やグラフィカルは、ほとんどない、のではないか?ところが、草間の作品はビクともしない。それどころか、ここの荒ぶるカオスを鎮めているように見える。なぜ草間の作品にそんなことが可能なのか?毒でもって毒を制する?そういう面もあるかもだが、僕には彼女が作品に込めたパワーの純度やピュアネスが桁外れだからなのでは?という気がする。

草間が穢れなきピュアな精神や魂の持ち主だとかいいたい訳ではない。作品制作への向かい方やテンションが尋常じゃないということだ。草間は生命力のすべてを注いで作品をつくっている。頭では考えていない。頭=イメージも使っていない。彼女がリアルに生きている世界そのものを体現している。小さい時から見えている=襲ってくる得体のしれないものと戦うように筆を走らせる。大げさに言えば、死の誘惑を乗り越えて草間の作品は生まれ出てくる。だから草間の作品は、不死鬼のごとく街の歪みをねじ伏せる。このような強度こそ、アート本来の力だったのだろうか?

まるで寺社のように地霊を鎮めることのできるアート作品。

それはもうイコンという先祖帰りに近いものなのかもしれないが、一方で街におけるアートの新しい可能性を観た気がした。